①③勝利のセオリーを知れ

①孫氏の兵法とは

日本の戦国武将達も参考にした兵法書で、中国人にとっては、現代においてもバイブル的な兵法書となっているようです。孫子の兵法で最善の策とは、戦わないで敵を屈服させることなのです。

「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」と教えております。次には、

「彼を知り己れを知れば百戦危うからず」

戦いの前に殆ど9割方勝負はついているのです。

実際の戰になった時には、相手が動揺しパニックを起こさせたらば勝ちなのです。

その為には諜報活動が最も大切になるのです。

現代でもスパイが最重要、特に中国人に取っては最も重要視していることになります。

しかしながら日本はスパイに対する考え方が甘すぎる為に、規制する法律や罰則が弱く、スパイ天国となってしまっているので一番まずい状況にあるのです。「孫子」のスキルは現代にも応用できるのです。兵法とは「戦いのノウハウ」ですが、基本的には理詰めであり、ロジカルシンキングの方法になるです。ですから、時代を超えて、あらゆる分野にも使えるスキルなのです。

勉強にも、人間関係にも、家族内の交渉事でも活用する価値が十分あるのです。

②アレキサンダー大王の戦略

訓練組織化された軍団、隊列、長槍隊の編成は、織田信長も桶狭間の戦いの際に参考にしています。

アレキサンダー大王は、大河ドナウ川の渡河に成功し(浮き輪を付ける等工夫凝らす)、敵の意表をつく攻撃で撃破しました。

ハンニバルのアルプス越えでも意表をつきました。日本の源義経の奇策(一の谷の合戦のひよどり越え)と同様の作戦です。

  アレキサンダー大王は、敵に物理的かつ精神的にダメージを与えることを得意とします。

敵の軍に挟撃されそうになった際には、即座に軍事演習を開始し、統制力と凄みをわざと見せつけ

敵を精神的に威圧、同時に味方も鼓舞し、撃破に成功しました。

  ある時は、北から400キロの道のりを10日で進軍しました。あまりの進軍の早さに相手の裏をかき、敵は準備不足で混乱しました。

それを可能にするには、工兵による道の足ならしと言う事前整備がありました。

日本では、豊臣秀吉の中国大返し、美濃大返しと言う2回の大返しが伝説的に語られています。

因みに、三国志の司馬懿も進軍の早さは「神速」と言われるほど有名でした。

③赤壁の戦いとは

曹操が騎馬部隊を率いて行進する陣形は『錐行の陣』大部隊を矢印のように展開し前面の精鋭が敵を蹴散らすように圧倒する強襲タイプでした。

陣形(じんけい tactical formation)とは、戦闘において安全を確保し、柔軟かつ迅速な対応を可能にし、戦闘力を最大限に発揮するための人員と装備の類型化を目論んだ配置です。

横隊は古代には教練陣形として確立された基本的な陣形の一つであり、18世紀においても地上戦闘で歩兵部隊は2-3列横隊に展開して戦闘を行っていました。正面に対して広く展開することで火力を最大限に発揮し、敵が側背を包囲することを妨げる利点があるのです。

 日本では中国の八陣図が古くから知られ、平安時代に大江維時により魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円という和名が作られました。古代中国の八陣については風后により作られ孫子や呉起、諸葛孔明などに利用されました。

⑨鶴翼の陣とは

自軍の部隊を、敵に対峙して左右に長く広げた隊形に配置する陣形です。

単に横一線に並ぶのではなく、左右が敵方向にせりだした形をとるため、ちょうど鶴が翼を広げたような三日月形に見えることから、この名が付きました。古より会戦に用いられ、防御に非常に適した陣形の一つになります。

主たる戦術的意図は、前進してくる敵軍を翼包囲することにある。兵力差が大きく開いているときや、籠城戦等を考慮したときのために、なるべく兵の損失を出さないために考えられた策なのです。突撃してきた敵軍に対して、集中攻撃を加え自軍の被害を抑えることができる戦術です。

 羽を広げる鶴の様に、広げた翼の横部分から相手を囲い込んでしまえば一網打尽に出来る戦術なのです。

 徳川家康は、三方が原の戦いで武田信玄に対してこの陣形を使用しましたが、武田信玄は上手だったので、鶴翼の陣の弱点である中央部隊の一点集中攻撃により突破されてしまいます。

その後は、西へ去ったと見せかけて、それを調子に乗って追いかけた家康軍を返り討ちにした為、家康は命からがら浜松天満宮に逃げ延びるはめになったのです。

④鬼島津の戦法とは

釣り野伏せは、野戦において全軍を三隊に分け、まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退するのが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせます。これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成します。

約10倍の相手を倒してしまう恐ろしい戦法です

「泗川の戦い」8000兵で董一元の率いる10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退しました。

木崎原の戦いでは300対3,000で伊東に勝利。

耳川の戦い、約3万対約4万で大友軍に勝利。

沖田畷の戦い 6000対25000で 龍造寺隆信破る

戸次川の戦い 1万対2万で長宗我部頼親に勝利

根白坂の戦い 3万5千対15万で豊臣秀吉に敗北

 捨て奸(すてがまり)は、関ヶ原の合戦の最後「島津の退き口」とも形容された戦法です。

本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めをします。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法なのです。

足止め隊はまさに置き捨てであり、生還する可能性がほとんどありません。命を捨てて護る壮絶なトカゲの尻尾切り戦法なのです。

「車撃ち」は、鉄砲隊の連射を可能にする為に、

準備が出来た鉄砲隊が一番後ろから一番前に移動を繰り返しながら進んで行く戦法のことです。

⑤モンゴル軍の戦略は

❶敵軍と距離がある場所から、驚くほどの矢を射込み続ける(攻撃準備砲撃)。

敵兵と斬り合う前に、モンゴル軍は集団で遠方から敵を十分痛めつけていたのです。また、モンゴルは10の家族の集団(十戸)、100の家族の集団(百戸)、1000の家族(千戸)ごとにリーダーを決め、民族全体を軍事制度に組み込んでいたことも大きな違いでした。 

この制度は行政と軍事を兼ねており、九五の千戸集団であるモンゴル全体が、いつでも遠征軍に出動し、一糸乱れぬ統率で、素早く戦争を始めることを可能にしました。

 現代企業のキーエンスの事例にたとえると、本当の必要性を理解している生産現場に矢を射込み続けることで、キーエンスは他社が太刀打ちできない優位性を、売り込みの前段階で確立しています。この差は営業マンの個人スキルでは対抗できず、集団の戦い方から生まれる優位性であり、中国王朝や西欧の騎士団に圧勝したモンゴル軍の戦闘スタイルとも重なります。

❷わざと退却するなど、相手が調子に乗って城から出てくるように誘導する。

島津義弘の釣り野伏せ戦法に似ています。

この戦法は最大10倍程度の相手でも倒すことが可能な恐ろしい戦法なのです。

❸追いかけてきた敵軍を矢の雨で囲み、傷ついたところを重装歩兵がとどめを刺します。

 チンギス・ハンの軍団は騎馬民族特有の「疾風のような行軍速度」にも強みがあり、顧客への試作機を最短でつくるキーエンスの即応力とも共通点があるといえるでしょう。

訓練された騎馬隊のスピードと組織力、一旦引き下げてからの再攻撃が素晴らしいのです。

⑥ナポレオンの戦法は

ナポレオンの法則はその特徴から様々な呼び方がされます。集中効果の法則もその一つです。

トラファルガー海戦からわかるように、軍隊はできるだけ一丸となり一箇所に集中して攻めた方が敵をやっつけるのには効果的だということです。

 ドイツのフォルクスワーゲン社は他社と競争販売を行う場合に、まず自社独占率が40%を超える値域を1つつくることを最初の目標にする販売戦略を実施しました。エリア全域を一気に相手にするのではなく「戦力を集中せよ」の原則なのです。またデータベースをたった一つに集中して管理し、大衆車のゴルフからスポーツカーのポルシェに至るまで共通の部品で車を作ると言う戦略を取っているのです。

 ナポレオンの法則とは、簡単に言えば「戦力は、数(戦闘員、隻数)の2乗に比例する」というものです。

 右手で敵の攻撃を受け流して、左手でパンチを浴びせるのが、ナポレオンの得意技なのです。

敵がチャンスを見つけたと思い込み、調子に乗って動き始めた「動的」状態を冷静に観察して、逆に勝機を見出す臨機応変的な戦術に落とし込んで行くのです。

⑦ゲリラ戦とは

隠れて敵を出来る限り誘き寄せてから一網打尽にする捨て身戦法です。

朝鮮戦争で、アメリカを中心とする国連軍を相手に徹底的なゲリラ戦を繰り広げた中国義勇軍。

その戦い方は、大手相手に局所優位で戦う中小企業にとっても多くの学びがあります。

独自の品質、市場で大手企業に負けずに勝利をつかむにはどうすればいいのか?ニッチで戦うゲリラ戦の極意とは?今も昔も変わらない不変の勝利の法則なのです。

 ゲリラ部隊にとっての効率化とは、例えば次のようなことです。

❶販売量を限定できる製品をもう一つ出す

❷「ひと手間かけて魅力を引き出す」を継続できる体制づくり

❸いたずらに新規市場に飛び込まない(むしろ残存者利益を狙う)

米軍の言う「卑怯」とは、日本軍の多様なゲリラ戦術のことを指しています。

確かに、日本軍は対米戦における各地の戦場において、「待ち伏せ」「夜襲」「仕掛け爆弾」といった様々な戦法や武器を駆使して戦いました。

⑧日本軍が強い理由は

豊臣秀吉時代の文禄の役では、約16万人の軍隊で開戦から陸路21日間で約26万人の明、朝鮮軍を制圧し、現ソウルの漢城を陥落させました。

 慶長の役では約14万人の軍隊で明軍数十万人、朝鮮軍義勇兵100万人を倒したとされています。

 日清戦争では、24万人の日本軍が約3倍弱63万人の清国軍を容易く撃破しました。

1894年8月から朝鮮半島の北上進撃を開始した日本陸軍は、清国陸軍を撃破しつつ平壌は9月7日から攻撃し15日までの1週間で陥落させました。

後に鴨緑江を越え、翌1895年3月上旬までに遼東半島をほぼ占領しました。

日露戦争では、約120万人の日本軍が136.5万人のロシア軍に敵地で勝利しました。

奉天会戦は10日間で制圧し、日本海海戦では2日間で東郷平八郎がバルチック艦隊を全滅させました。

 大陸打通作戦では、約51万人の日本陸軍が100万人の中華民国軍に圧勝しました。

大陸打通作戦は、支那事変中の1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦で、爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことでした。

この時に活躍した岡村寧次大将は、さらに腹心部下である根本博中将を使い、モンゴルのソ連軍を叩きのめし、無事に居留民を帰国させ、台湾の金門島では毛沢東軍を追い払うことで、今日の台湾を守ることにも成功したのです。

 またポツダム宣言受諾後に千島列島と北海道を侵攻しようとしたソ連軍と日本軍守備隊との占守島(千島列島東端)での戦闘では、お互い約8千人同士の戦闘で日本はソ連の侵攻を食い止めたのでした。

 大和魂は命を恐れません。

たとえ撃たれても、命を恐れずに前進する姿に敵の方がパニックが発生して逃げてしまうのです。日本軍人は、たとえ物資の補給が絶たれても、遠方の日本、自分の家族、妻子を守る為に遠く離れた戦場で自らの命を賭して死ぬまで戦いました。そんな国民は、史上、世界のどこの国にもいません。武士道の因子も有り、日本軍があまりにも強すぎたのです。

 日本軍は鬼神の様に強く、人類史上最も国や家族や郷里を愛する気持ちが強く勇猛な国民だったのです。

⑩最後の質問

あなたが考える最善の勝つ方法とは何でしょうか?

参考文献

倉山満 大間違いの太平洋戦争

鈴木 博毅

戦略は歴史から学べ 3000年が教える勝者の絶対ルール日経ビジネス文庫

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