織田信長の子供22名
信長の直系の子孫といえば、次男織田信雄の家系が有名なのですが、信雄の5男高長の子孫が、丹波柏原藩2万石の大名となり、織田信孝氏が高長系の16代目になるのです。
信雄の母は、生駒家宗いこまいえむねの娘・吉乃きつのです。
織田信雄の四男・信良と五男・高長の2系列は、江戸時代が終了するまで大名家として生き残りました。
信雄の四男・信良の子孫は、出羽天童藩(小幡おばた藩からの移封ののち、出羽高畠から拠点移動した)を廃藩置県となるまで存続しています。
そして彼の娘の子・稲葉知通いなばともみちから始まり、公家の勧修寺経逸(かじゅうじつねはや)勧修寺婧子(ただこ)を経て仁孝天皇へと血筋が続き、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、明仁上皇、今上天皇と繋がってるのです。
一方で信雄の五男・高長の子孫は、大和宇陀松山藩主となり、その子の長頼の第に丹波国柏原かいばら藩へと移封した後、家系は現代にまで存続しています。
現在は織田家の第18代当主・織田信孝氏が織田孝一のペンネームにてフリージャーナリストとしてご活躍中なのです。
ただし、18代まで続く間に織田家内、そして他家との養子縁組を挟んで家系を存続していることから、織田信雄のDNAを継承しているわけではありません。血筋的には信孝氏は藤原南家工藤氏流内田氏のご子孫となります。
一方で、織田信孝氏の曾祖父・織田信親(のぶちか)は、交代寄合山崎治正(はるまさ)の長男として生まれ、末期養子として急遽織田家に迎えられました。織田信敬(のぶのり)の実姉が山崎治正の後妻になったからなのです。
山崎家は近江(滋賀県)山崎を発祥とし、近江半国守護・六角氏に代々仕え、山崎片家(かたいえ)が信長、秀吉の家臣となり、その孫・山崎家治は讃岐丸亀藩五万石を領しました。
家治の次男・山崎豊治から数えて11代目が交代寄合に列しました。
山崎治正の実父は平野長興(ながおき)で、賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた平野長泰の子孫になります。
豊臣秀吉の死後、長泰は関ヶ原の合戦で東軍につき、交代寄合に列しました。
その後も養子繋がりで内田家が遠江国(とおとうみのくに)内田郷を発祥とし、今川義元、氏真、徳川家康、秀忠の小姓となり、800石を与えられます。
正世の次男・内田信濃守正信は家光の小姓となり、殉死をとげました。
以上のように養子繋がりで続いて来ております。
その他の男子は、
長男:織田信忠、本能寺の変の後、二条城で自害
正妻は武田信玄の娘、塩川の娘
次男:北畠、織田信雄、幼名は茶筅丸
正妻は北畠の娘
三男:神戸、織田信孝、賤ヶ岳の戦いで自害
正妻は神戸の娘
四男:羽柴秀勝、秀吉の養子1586年病死?
正妻は毛利輝元の娘
五男:織田勝長、本能寺の変、二条城で討死
正妻は池田恒興の娘
六男:織田信秀、クリスチャン、九州征伐に従軍
正妻は稲葉貞通の娘
七男:織田信高、正妻は氏家氏の娘
現代では元スケート選手、織田信成氏まで繋がって生きながらえていると言うことになっています。もし本当で有れば、直系で残っているのはこの系統だけになります。
八男:織田信吉、関ヶ原の戦い西軍に付き改易
九男:織田信貞、関ヶ原で西軍大坂の陣で徳川方
十男:織田信好、秀吉の家臣、茶人
十一男:織田長次、関ヶ原の戦いで戦死
その他に、甥の津田信澄は、織田信孝と丹羽長秀が6月5日に討伐、末弟は阿弥陀寺の住職
女子は、
①徳姫、松平信康と婚約、娘2名
②相応院、蒲生氏郷の正室。
③永姫、前田利長室。
④報恩院、丹羽長重室。
⑤秀子、明智光秀へ養子、筒井定次室
⑥於振、水野忠胤正室、のちに佐治一成継室。
⑦源光院、万里小路充房の継室。
⑧三の丸殿、豊臣秀吉の側室、二条昭実の継室。
⑨鶴姫、中川秀政の正室。
⑩月明院、徳大寺実久の正室。
①①慈眼院、北条氏直の婚約者
以上の様に男系では織田信雄と、織田信高の家系が生き残り、女系も現代まで繋がっている様に推測することが可能なのです。
