明智光秀の子供は13名

 明智光秀が起こした(本能寺の変)は、斉藤利三が起こした突発的な事件だったので、明智光秀には織田信長討伐後のヴィジョンが足りなかったのだと考えます。

 それは、安土城を攻略した後の明智光秀の行動に表れています。

 明智光秀は、織田信長の財宝を朝廷に銀500枚、京都五山にそれぞれ100枚ずつ、吉田兼見にも50米を与え、その他の人々にもばら撒いてしまいました。もしも長期的な展望が有れば、無闇なことはしない筈だからなのです。

 また、明智光秀は京都五山以外の比叡山や奈良の仏教勢力、キリシタンをも敵に回してしまったことが致命的で、10日余りの天下で終わってしまったのです。

 しかしながら、明智光秀の血は絶えることなく、仲間達や近親者に匿われて今日まで続いているのです。

それでは、明智光秀の子ども達がどのようになったかを見て行きましょう。

 

長庶子(山岸光重)

生年不詳(1550年~1555年頃?)

叔父の1人である「山岸光信」の娘「千草」と愛し合い、男子をもうけたと言われます。

煕子の産んだ子供

長女(倫、明智秀満の妻)

【1556年】か【1557年】生まれ。坂本城自刃

成長後、「荒木村次」に嫁ぐが、荒木村重」が信長に謀反を起こしたため、「倫」は離縁される。

その後、光秀のいとこ「明智秀満」と再婚しました。

次女(名前不詳、明智光忠の妻)

【1560年】頃の生まれ。坂本城自刃

成長後、光秀のいとこ「光忠」に嫁ぎました。

三女(珠、「細川忠興」の妻、名「ガラシャ」)

【1563年】、越前生まれ。関ヶ原合戦前に自刃

織田信長の命令で「細川藤孝」の嫡男「忠興」と結婚。

忠興との間に「3男2女」に恵まれました。

四女(京子、津田信澄の妻)

【1566年】頃の生まれ。大阪城自刃?

信長の甥「津田信澄(つだ のぶずみ)」に嫁ぎ、2人の男子に恵まれました。

長男(十五郎、明智光慶、玄琳、南国梵桂)

【1569年】頃の生まれ

次男(十次郎、自然、光泰)

【1572年】頃の生まれ。

茶匠「津田宗及(つだ そうぎゅう)」の茶会に光秀の子として「自然(じねん)」参加しています。

三男(乙寿丸)

【1576年】頃の生まれ。吉田兼見に山科で匿われていた。現在まで作家「本能寺の変 431年目の真実 」(文芸社文庫)の明智憲三郎氏へ繋がっています。そして明智光秀生存説(天海=光秀説/天海=秀満説)を唱えた明智滝朗氏が明智憲三郎の祖父にあたるのです。

 現代になり、ようやく堂々と明智光秀の子孫だと語れるようになったのです。

側室・公家?原仙仁の娘の産んだ子供

六女(名前不詳、川勝丹波守の妻)

生年不詳(1577~1582年?)

女子を1人出産したと言われます。

側室・北村保光の娘の産んだ子供

末子(内治麻呂、喜多村保之)

【1582年】生まれ。

養女として迎えた子供

五女(織田信長の娘・秀子、筒井定次の妻)

生年不詳(1562年~1564年頃?)。

 明智光秀は歴史上では滅びてしまいましたが、

明智光秀の子孫は今なお生き続けており、明治維新のヒーロー坂本龍馬も明智光秀の血を引いていたとも噂されているのです。

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