徳川家康の子供16名
徳川家康の子どもは16名と言われていますが、参勤交代の制を整えるなど、江戸幕府の基礎を築いた三代将軍・徳川家光の父は徳川家康、母は春日局だったいう奇説があるのです。
春日局は本能寺の変の実行犯で、明智光秀に仕えた斉藤利三の娘なのです。
織田信長の子孫は、元スケート選手の織田信成氏のように今でも続いています。
徳川家康は、織田信長の子孫に対しては特別な保護をした形跡がありませんが、反対に豊臣秀吉の子孫は徹底的に根絶やしにしています。
明智光秀の子孫も斉藤利三の子孫も根絶やしにはなっていません。
もしも徳川家康に斉藤利三に対しての思い入れがあったのだとすれば、本能寺の変に徳川家康が大きく関わっていたことになります。
1男/信康/のぶやす
永禄2年(1559)、駿府に生まれ幼名竹千代。
母は築山殿関口氏。同6年に織田信長の女五徳姫と10年に結婚した。元亀元年(1570)、元服して岡崎城主。織田信長から武田氏に内通したと嫌疑をうけ、天正7年(1579)に二股城で自刃21歳。
1女/亀姫/かめひめ
永禄3年(1560)、駿府に生まれ母は築山殿関口氏。天正4年(1576)
三河新城城主の奥平信昌と結婚。信昌が慶長6年(1601)に美濃加納10万石に封ぜられて同地に住したので、加納御方、加納御前と呼ばれる。
信昌没後、尼となり盛徳院と称した。寛永2年(1625)没。66歳。
2女/督姫/とくひめ
永禄8年(1565)岡崎に生まれ母は鵜殿氏西郡の局。家康と北条氏直の甲斐・信濃をめぐる対立の和議条件により、天正11年(1583)に氏直と結婚。氏直は小田原の陣で督姫の故を似て助命されるが病死し、2人の間に子がなかったので督姫は 徳川家に戻った。文禄3年(1594)、池田輝政に再嫁。輝政没後、尼となり良正院と称した。元和元年(1615)没。51歳。
2男/秀康/ひでやす
天正2年(1574)、遠江有富村に生まれ幼名於義丸。母は永井氏於万の方。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦後、家康と秀吉の和議により秀吉の養子となり、羽柴三河守秀康を名のる。天承18年に下総結城氏5万石の跡目を相続し、
結城姓を称した。関ケ原合戦のときは、会津上杉氏を押さえる任務を負って宇都宮に留まり、戦後、越前一国67万石を領した。慶長12年(1607)没34歳。
3男/秀忠/ひでただ
天正7年(1579)、浜松に生まれ幼名長松。
母は西郷氏於愛の方。天正18年上洛して聚楽弟で秀吉に会ったとき諱字を与えられ秀忠と名のる。関ヶ原合戦には西上するにあたり 東山道軍指令であったが、信州上田城攻めに手間取り決戦に遅れ、家康の叱責を受けた。慶長10年(1605)
2代将軍となった。寛永9年(1632)没54歳。
4男/忠吉/ただよし
天正8年(1580)、浜松に生まれ幼名於次福松丸。母は西郷氏於愛の方。同9年、東条松平家の跡目を相続した。天正12年の小牧・長久手の戦後、兄於義丸とともに人質として大坂の秀吉のもとに送られた。 家康関東入国ののちに武蔵忍10万石を与えられる。関ヶ原合戦時には、東海軍の先手の大将として起用されて功があり、戦後に尾張清洲城主52万石に加転される。慶弔12年(1607)没28歳。
3女/振姫/ふりひめ
天正8年(1580)、浜松に生まれ母は秋山氏於都摩の方(下山殿)。秀吉の命で文禄4年(1595)蒲生氏郷の嫡子である秀行と婚約し、翌年結婚。秀行死後は浅野長晟と元和2年(1616)に再婚したが、翌年没した。38歳。
5男/信吉/のぶよし
天正11年(1583)、浜松に生まれ幼名万千代。
母は穴山信君(梅雪)の養女である於都摩の方(下山殿)。武田姓を名乗った。文禄元年(1592)に下総佐倉4万石に封ぜられる。慶長7年(1602)には常陸水戸15万石に加転封 となるが、同8年に21歳で没した。
6男/忠輝/ただてる
文禄元年(1592)、江戸に生まれ幼名辰千代。
母は河村氏於茶阿の方。慶長4年(1599)、夭死した同母弟松千代のあとを承けて
長沢松平家の名跡を継ぎ、武蔵深谷1万石を領した。関ヶ原の役を経て下総佐倉5万石、のちに 信州川中島12万石、さらに、慶長15年には越後高田60万石に移封。元和2年(1616)、改易に処されて追放。各地に転々と移され、元和3年(1683)に信濃上諏訪で没した。92歳。
7男/松千代/まつちよ
文禄3年(1594)、江戸に生まれ母は河村氏於茶阿の方。長沢松平家を嗣いだが、慶長4年(1599)没した。6歳。
8男/仙千代/せんちよ
文禄4年(1595)、伏見に生まれ母は志水氏於亀の方。平岩親吉の養子となったというが、慶長5年(1600)没した6歳。
4女/松姫/まつひめ
文禄4年(1595)、伏見に生まれた。母は間宮氏。慶長3年(1598)没4歳。
9男/義直/よしなお
慶長5年(1600)、伏見で生まれ幼名は千代丸。五郎太丸。母は志水氏於亀の方。慶長8年(1603)、甲斐25万石を領有。同12年、家康4男の忠吉没後に尾張に移封される。
尾張徳川家の始祖。慶安3年(1650)没。51歳。
10男/頼宣/よりのぶ
慶長7年(1602)、伏見で生まれ幼名福丸。
母は正木氏於万の方。慶長8年に家康5男の信吉が没したあとを承けて、
常陸水戸20万石を領有し、同9年には5万石加増された。後に紀州徳川家となる。
11男/頼房/よりふさ
慶長8年(1603)、伏見に生まれ幼名鶴松。 母は正木氏於万の方。太田氏於梶の方に養われた。
慶長11年、常陸下妻10万石を領有。同14年に兄頼宣が駿河・遠江に移封 されたあとを承けて水戸25万石に封ぜられ、のち加増されて28万石を領有。水戸徳川家に始祖。寛文元年(1661)没。59歳。
5女/市姫/いちひめ
慶長12年(1607)、江戸に生まれ母は太田氏於梶の方。伊達政宗の子忠宗と婚約したが、慶長14年の早世。4歳。
以上のように、徳川家康の子ども達の子孫は未だ日本で健在なのですが、二代目将軍の徳川秀忠は影の薄い存在となってしまったのです。
