明智光秀の本能寺後

 本日は、本能寺の変の真の犯人について、再度考えてみたいと思います。

 本能寺の変の背後には、拡大するキリスト教勢力と弾圧された仏教勢力の争いがありました。

 私は本能寺の変の真の実行犯は斉藤利三であり、それにキリスト教勢力の力を利用して秀吉に天下を取らせようとした、黒田官兵衛が陰のMVPだったのだと考えます。

 明智光秀は部下を守り、責任を取らざるを得ない立場だったのだと考えます。

 1882年当時の織田信長は日本統一を目前としており、日本統一後には明国征服を計画していました。その際に日本は織田家息子三名を中心に任せ、自分や主力大名は海外に領地を与えて移住させる方針を立てていました。当然ながら朝廷や大名達は冗談じゃないと考えていたのでした。

したがって、天皇家や足利家や仏教勢力は、織田信長やキリスト教勢力を打倒したいと強く感じていたでしょうし、それに対してキリスト教勢力は、明国征服は支持出来ませんが、キリスト教を保護して貰える織田信長体制を支援していました。

 一方で織田信長は、日本統一を早める為には徳川家康の暗殺を考えており、その計画を知っていたのはおそらく、細川幽玄、筒井順慶、穴山梅雪、明智光秀だったと考えられるのです。

 豊臣秀吉や長谷川秀一には知らされて無かったのだと考えられますが、黒田官兵衛はキリスト教派からの情報を事前に得ていたのだと考えます。

明智光秀の考えは、

①東は浅井、上杉、徳川家康が抑えアリバイ作り

②西は毛利と長曽我部、波多野で抑える

③細川、筒井と連合予定だったのですが秀吉に調略されて阻止される

④堺商人や仏教勢力とも協力出来る

⑤イエズス会の大名が秀吉を押したのは想定外でした。

⑥丹羽長秀、織田信孝が直ぐに攻めて来なかったのも想定外でした。

⑦明智光秀は錦の御旗を上げられ無く、大失敗してしまったのです。

本能寺の変後の足取り

1582年6月2日 実行犯は斉藤利三で、明智光秀は午前中には本能寺の現場におらず鳥羽で待機していました。明智光秀は午後に坂本城へ移動し、諸大名に協力を要請しました。

6月3日 秀吉は明智光秀の魂胆を知る

細川藤孝はキリスト教派の信孝へ忠誠を誓う

6月5日 明智光秀は安土城、長浜城、佐和山城を占拠。大坂城の津田信澄を丹羽長秀が殺害

明智光秀は朝廷からの勅書受け取るまで3日間安土城に居座る

織田信孝と丹羽長秀を待ち伏せしていましたが、来なかったので失敗したと考えられます。

6月7日 吉田兼見、誠仁親王からの勅書受け取る

6月8日頃にオルガンティノと会談し協力を要請するも結果的には無視される。

6月9日 上洛、献金、庶民へ税金の免除を行う

6月10日 洞ヶ峠で待ち合わせの筒井順慶の裏切りに合う

細川藤孝が裏切り、足利義昭、毛利、長曽我部の援軍も無し、本願寺や雑賀衆も駄目でした。

6月11日 中国大返し、尼崎で秀吉、信孝が会談

利休堺勢力が動き、高山、中川、池田、細川のキリスト教派が団結する。

6月12日 山崎の戦い前夜、光秀は天王山を失う

丹羽長秀に総大将を辞退させたのは黒田官兵衛の仕業。

6月13日 山崎の戦いの本戦、池田恒興の活躍で豊臣秀吉軍が勝利。

明智光秀は落武者狩りで命を落としたとされる。

豊臣秀吉は淀城から三井寺まで進攻する。

6月14日 豊臣秀吉に朝廷から勅使が来る

6月16日 豊臣信孝が本能寺に首を並べる

6月17日~23日 信孝が近衛前久探しへ

6月27日 清洲会議で三法師を擁立し秀吉の天下

 明国への進出は、豊臣秀吉が織田信長ね意志を引き継いだものなで、秀吉の朝鮮出兵を見れば織田信長の当時の構想は明らかなのです。

明国出兵は朝廷も大名もキリスト教派も大反対であり、織田信長を止めてくれる人物がこの時代には必要だったのです。

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