蘇我氏の正体
日本書紀に従えば、蘇我一族は日本の政治を専横して天皇家を蔑ろにしてしまいました。蘇我馬子の時代の592年には東漢駒をして崇峻天皇を弑逆しました。
また蘇我入鹿は、聖徳太子一族を無実の罪で全滅させてしまいました。
そこで藤原氏と秦氏は、武内宿禰の子孫である蘇我氏に背乗りして、蘇我氏に代わって日本を支配したのです。 7世紀に横暴な政治を行っていた蘇我入鹿を中臣鎌足が成敗したのが「大化の改新」だと歴史の教科書では習います。
中臣鎌足は、勝者としてヤマト政権を乗っ取りました。息子の藤原不比等の時代になり、倭国初の歴史書「日本書紀」を編纂しましたが、勝者の理論により蘇我氏の出自を隠して、極悪非道の国賊に仕立て上げてしまったのでした。
客観的に、藤原氏が自らが有利になるように、歴史を改竄したのだと考えると、①藤原氏は律令制度の成果を横取りした。
②蘇我氏の出自を隠しているのは、本当は尊いご先祖を頂いているからだと推定されます。
③6~7世紀に活躍した蘇我一族は、蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿と四代続きました。
この一族は、葛城氏の出であると現代では考えられており、葛城氏は襲津彦の英雄が有名で、宮廷政治を動かしてきた家系なのです。尚出については,大和国曾我説も捨て難いものがあり、蘇我氏神の宗我坐宗我都比古神社があります。葛城の地では,四世紀末まで奈良盆地の西南部で大王支配外にあった有力豪族でした。 初代蘇我稲目は、宣化朝に大臣になりましたが、政界は新興の大伴・物部の全盛期であり、葛城代表に起用されたにすぎませんでした。しかしながら、稲目の時代の功績は、欽明天皇の后に蘇我氏娘を送り込み、大伴氏の勢力を弱め、仏教を受け入れ、屯倉経営に力を注いだことがあげられます。④初期の倭国建設功労者 倭国成立より軍事を司った大伴氏は、朝鮮半島南部との利権が絡み,新興勢力蘇我氏に敗れて姿を消しました。
建国時のニニギの命の子孫を任ずる物部氏は、天皇家に自家の祭事を押し付け、主力豪族の寄せ集めの前方後円墳を完成して、短期間に九州から東北南部にまで広めました。その先駆けが、纒向遺跡に280年頃構築された箸墓古墳なのです。⑤仏教の導入蘇我稲目は、仏教の導入を図る際、神道擁護派の物部尾輿と対立してトラブルを起こして敗れましたが、30年後に息子の馬子が物部守屋に勝利して、氏寺の飛鳥寺を創建し飛鳥文化を築きました。⑥蘇我馬子と物部守屋の戦いは、神仏争いと信じられていますが、実際は政権争いであり進歩派の馬子と厩戸皇子の勝利は後の律令制度の推進に有利になりました。⑦律令制度の先駆けの推進
推古天皇や聖徳太子と馬子のトロイカ体制で、強力な権力を持った馬子は、律令制度の開発を推し進め、各地の豪族から私有地や私有民を取り上げ、再配分する「公地公民」の制度を導入しました。⑧律令制度の根幹となる天皇家の力を増長させるため、屯倉の拡大に力を注ぎました。
屯倉は、豪族より土地と民を取り上げて天皇家の所有にするもので、渡来者を多数登用して、最新の技術の導入と財政管理を強固なものにしました。 555年には「白猪屯倉」を造り、瀬戸航路の確保と朝鮮出兵の際の筑紫と難波の中継基地としました。⑨厩戸皇子による冠位十二階や憲法十七条の制定を制定しました。
大陸を統一した隋と対等国交外交を狙い、607年に小野妹子を遣隋使として派遣しました。
⑩藤原氏は蘇我氏の出自を隠蔽しましたが、蘇我の祖は正統であり天皇家そのものだったのだと考えられます。
藤原不比等は蘇我氏の祖を極悪非道の国賊に仕立てることで、真の歴史を闇に葬ったのでした。