最強の戦術

もしプーチン大統領とゼレンスキー大統領がグルだとしたら、今回の紛争は驚きの戦術になってしまいます。
もしそうならば、今回の目的は、NATO、国連の解体、ドル決済、SWIFTシステムの崩壊、
エネルギー供給の主導権奪回、ネオナチDSを一網打尽に一掃、バイテン家の壊滅と言うことになり、難しい問題を一気に解決してしまう天才的な手法だと言わざるを得ない状況なのです。
歴史的な策士の手法を振り返ってみると、
①アレキサンダー大王 紀元前356年 – 紀元前323年
有名な哲学者のアリストテレスがアレキサンダー大王を指導していました。
アリストテレスの名言に「人間は、目標を追い求める動物である。目標へ到達しようと努力することによってのみ、人生が意味あるものとなる」があります。
大槍隊を率いた無敵の戦法、訓練方法は織田信長も桶狭間の戦いで参考にしたと考えられます。
強い団結力で不退転で敵に向かう姿勢が素晴らしいのです。
グラニコス川の戦いでは、アリストテレス軍
1万8千に対して、ペルシャ軍は1万5千〜3万でしたが、右翼の活用と中央突破を組み合わせて、勝利しました。
またイッソスの戦いでは、自軍4万1千に対して、ペルシャ軍はダレオス3 世率いる10万人を見事に倒しました。
また、ティルスの戦いでは島に橋をかけたり、
ガウガメラの戦いではマケドニア軍4万7千に対してペルシャ軍12万のダレオス3世を打ち破ったのです。
②三国志の曹操、
諜報と調略、八卦の陣、時間の観念が有りません。208年の赤壁の戦いで劉備軍は4〜6万人で15〜24万人の曹操軍を倒しました。
孫子の兵法は呉軍3万人で楚軍20万人を打ちまかしています。
③チンギスハン
ユーラシア大陸を支配したチンギスハンの戦術は、遠距離からでも正確に矢を射を的中させる。
わざと逃げると見せかけて、敵を誘導し、追いかけてきた敵軍を矢の雨で囲み、傷ついたところを重装歩兵がとどめを刺す。
10の家族の集団(十戸)、100の家族の集団(百戸)、1000の家族(千戸)ごとにリーダーを決め、民族全体ごと軍事制度に組み込み、世界一優秀かつスピードが有る騎馬隊を組織し戦いました。
情報連携、スパイ、兵站、訓練、馬術、戦略、トリックでも最高の技術を誇りました。
④ナポレオン皇帝
包囲網を撃ち破る戦略、戦場の「動的」状態に好機を見つける戦法は、若きイタリア戦役からナポレオンが一貫して発揮し続けた才能であり、
敵の古い貴族指揮官を震撼させた戦い方でした。
しかしながら、1815年のワーテルローの戦いでは、7.2万人のナポレオン軍が右翼攻撃に失敗し、7.3万人の英蘭独連合国に敗北してしまうのです。
⑤島津義弘
文禄の役、慶長の役では、豊臣秀吉軍約16万人が約25万人の明朝鮮軍に圧勝。
特に1598年の泗川城の戦いでは、島津軍約8千人が約2万8千人の明朝鮮軍を釣り野伏せ、島津の半扉て言われる作戦で絶滅させました。
韓国では「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と呼ばれて未だに恐れられいるのです。
⑥織田信長
1560年の桶狭間の戦いは、信長軍がたったの約2〜3千人で今川軍約2万5千に勝利した歴史的な戦いでしたが、実は戦う前に信長は勝利を確定させていたのです。
それは、優れた諜報戦、戦略、常識破りの戦略、天候、最強槍部隊、鉄砲隊、奇襲での頭取りと言った作戦通りに戦うことが出来た結果だったのです。
⑦日本軍
1894年の日清戦争では、大日本帝国軍約24万人で約63万人の清軍に勝利。
1904年の日露戦争では、大日本帝国軍約30万人で約50万人のロシア軍に勝利。
1931年の満洲事変では、日本軍約1万人で30万人国民革命軍を制圧し、1932年の第一次上海事件では約4千人で、約5万人の国民革命軍を倒しました。
1937年の第二次上海事件では、日本軍約25万人で約60万人の国民革命軍に勝利。
また、その後の日中戦争では、日本軍約26万人で、国共合作軍約77万に勝利し、岡村寧次(やすじ)大将は、「最強の軍人」と恐れらているのです。
その後は、1939年ノモンハン事件では、約7万人の日本軍は、約15万名のソ連モンゴル軍を苦しめました。
1944年パラオ、アンガウル島の戦いにて、舩坂弘軍曹は、たった1人で米国軍100名を殺傷し、日本のランボーだと讃えられているのです。
1945年硫黄島の戦いでは、栗林中将率いる日本軍が玉砕に至るも約2万人強で、最後は約11万人のアメリカ軍を苦しめました。
1945年8月18日の占守島の戦いでは、約8千名のソ連軍の侵略に対して同じく約8千名の日本軍がソ連軍を撃退しましたが、日本軍の死者256名に対してソ連軍は2千人以上を失いました。
⑧第二次長州征伐
約4千人の長州軍が約11万人の幕府軍を敗走させました。7月に徳川家茂が大坂城で死去したことを契機に撤兵し幕府はその権威を失墜し大政奉還へと繋がりました。

⑨元弘の乱1331年〜1333年
楠木正季は約30人で鎌倉幕府8500人と戦い、後醍醐天皇の熱意が鎌倉幕府滅亡へと繋がりました。

⑩岩屋城の戦い1586年
大友家臣高橋軍はたった764名で、約5万人の島津忠長軍に立ち向い玉砕しました。
この高橋鎮種らの命をかけた「岩屋城の戦い」があったからこそ、半月も足止めされた島津勢はタイムオーバーとなり悲願の九州統一は間に合わず、結果的に豊臣秀吉の九州制覇が実現することに繋がりました。

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