武士道中立化

今後の日本は、同盟国のアメリカ政府や自由と正義を信じるアメリカ国民とは引き続き、良きパートナーとして連携し、仲良くして行くべきなのです。
しかしながら、ロックフェラー財閥やロスチャイルド財閥等の「人間牧場」政策には、決して耳を貸してはいけません。それが、これからの日本にとって重要な方向性だと考えるのです。
客観的に日本の歴史を振り返ると、日本全国が統一されたのは、豊臣秀吉の時代1590年頃の事ですから、今からたった約400年前に過ぎないのです。
また、明治維新以降の日本は、本当の日本だったのか?という疑問も湧いてくるのです。
もしや、欧米に操られた傀儡国と化してはいなかったのでしょうか?という疑問なのです。
豊臣秀吉の天下統一後の江戸時代は、まさに日本が「武士道中立化」していた時代でした。日本は軍事的な「武力の武」では無く、「武士道の武」による中立で有る姿勢が最も重要なのです。
そして日本は世界平和の為に、「武士道中立化」し、今後も戦争を阻止すべきなのです。その為には、日本国民全員が柔道、剣道、空手等の「武道の達人」となり、「武士道精神」を徹底する事から始めるべきなのです。日本の「武士道精神」を改めて定義しておくと、それは自分自身の心と向き合う「自己規律」・「精神」の強さを表す言葉であり、「生きる姿勢」そのものなのです。それは、他者を力ずくで圧倒したり、外界に見せびらかすパフォーマンスでは無いのです。
これが日本人の美学であり、心の姿勢を表す「道徳心」でもあるのです。
しかしながら、外部の人々から「心の姿勢」そのものを直接目で確認する事は出来ません。
心の中にしか無い「心眼」そのものは「共鳴」する事は出来ても、直接見る事が難しいからなのです。
しかしながら、「武士道精神」≒「心眼」は、その人の行動を見れば容易く確認する事が出来る筈なのです。
たとえ自分の命を捨てても「社会に偉業を残す事」を重んじ、仁義礼智を大切にし、自分より先に他人の事を思い遣れる模範的な行動を通して、「心の姿勢」を確認する事が出来るのです。
もしも誰かが「悪の手口」を使いそうな徴候を見付けたならば、事前に徹底的に議論、論破寸前にしてしまうべきなのです。さらには、実際に「汚い手」を使われたなら、10倍返しで徹底的に論破寸前にして、上手につぶしてしまう事も必要になるのです。
また、現代の脅威である、サイバー攻撃、生物細菌兵器、最新技術への対策をしっかりと行い、自分から攻撃をする事は絶対にしませんが、ひとたび攻められた時には、徹底的に相手を潰す準備をしておくべきなのです。
その具体的な対策としては、
①「グリーンベレー」のように、質の高い特殊部隊(消防署や警察署と連携)を日本各地の要所に配備し、尖閣諸島には常駐者を置くことです。
②サイバー対策部隊世界一、生物兵器処理部隊世界一、超音波部隊、核処理部隊、迎撃弾世界一の特殊部隊を自衛隊の中に置くことです。
③諜報機関、日本版CIAを設置し、忍者のような人材を復活させることです。日本に入ってくるスパイは、徹底的にマークし、ひとたび不穏な行動を取れば厳しい処分で、徹底的に対抗するべきです。
④国民全員参加の武道大会、体力世界一を目指します。 ⑤マスメディア対策、ディベート世界一を目指します。⑥武器技術世界一となり、製造販売をも行うべきです。そして大切な心を守る為には、犠牲にしなければならない代償が必ずある事を、我々は肝に銘じなければならないのです。
ところで、政治家や官僚の中には、人間的にも頭脳的にも素晴らしい人々が大勢いる事は明確な事実です。
しかしながら、政治家や官僚の全体像を見ると、己の保身ばかりを考えて、武士道を忘れてしまった、愚か者達の集団と化してしまっているように見えるのです。
たとえば、憲法を一番守らなければならない政治家が、一票の重みでの重大な憲法違反を犯している事。
また、財政をコントロールし、国民の借金や税の負担を下げなければならない官僚が、自らの組織や出費を増やし、国民の負担を増やしているからなのです。
国会議員が自分達の保身の為に、議員定数を減らせないのと同様に、官僚は自らの保身の為に、東京から首都を移転し、道州制に移行させる事も出来ないのです。「武士道の精神」から言えば、これこそが「恥」にあたるのです。
たとえ自分は犠牲になってでも、国民全体の利益を優先するのが武士道精神では当たり前だからなのです。
そして、人々の為に身を削って奉仕する事こそが、「武士道」から見た美徳となるのです。
「自己保身」に走り、「奉仕の精神」を忘れ、時には「ずるい手」を平気で使う時代となってしまったように感じるのは、私の思い違いなのでしょうか。
人間は、誰もがこの世に裸で生まれて来ました。
裸でいる事は、金持ちか否か、地位が高いか低いかも関係なく、人間にとって最も自然な事であり、日本人にも縄文時代からこの裸の文化が続いてきたのです。
「隠さない文化が善」であり、「隠す文化が悪」と言えるのかもしれません。
ですから、もし政治家も官僚も、全ての情報を公開し「見える化」をしたならば、かなりの問題が解決されると期待出来るのです。ところが、江戸時代の「隠さない文化」が明治時代になると、一変してしまったのです。どうもペリーが、下田で銭湯の様子を覗き「なんで?」というのが、始まりらしいのです。
21世紀は、あらゆる意味で日本人が「裸一貫」に立ち戻るべきだと考えます。
20世紀の、中途半端な個人主義や西洋的な価値観が、日本人の生活様式を変えてしまったからなのです。
福祉の現場を見ても、最も障害となっているのは異常なまでの「個」へのこだわりだと考えるのです。
例えば、個室病棟が必要だとか、個別のトイレが必要だとか、個別のお風呂が必要だと考えてしまう事が、福祉の現場での仕事を膨大なものとしている、原因なのではないでしょうか。
病人や老人に本当に必要な事は、「個」では無く、むしろ他人とのコミュニケーションであり、コミュニケーションを生きがいにすることで、人生を楽しく全うできるのではないでしょうか。
例えば、寝たきりの病人に手間が掛かる仕事は何でしょうか?
おそらく、食事、排泄、お風呂、着替え、移動といった支援を必要とする作業ではないでしょうか。
日本人の衣装は、もともと着物であり、病院でもガウンや着物を着る事もあると思いますが、簡単なガウンもしくは裸で集団生活ができれば、排泄、お風呂、着替えといった作業が圧倒的に楽になる筈なのです。
表面的な面子や外面に拘る人々にとっても、裸になればうわべは関係が無くなる筈なのです。
ですから、中味だけで勝負する気持ちに切り替える事から、始めなければならないのです。
それでは、反対に裸のデメリットとしては、何が考えられるのでしょうか?
例えば、すり傷などの軽度の怪我が増える可能性が有るります。そして体温調節が難しくなる危険性があります。しかしながら、一番はプライバシーや恥ずかしいという気持ちなのだと考えます。しかしながら、ふしだらという考え方は、明治時代に西洋人から植え付けられた価値観だったのではないのでしょうか。
日本人の恥とは、裸を見られる事では無く、マナーを守らない事だからなのです。日本人にとっては、むしろ隠すことの方が、恥なのです。
日本人には恥の文化があるから、のべつ幕無しに露出する事はありえません。結果として見えてしまいますが、恥ずかしそうに振る舞うから、それがむしろ美しさへと繋がっていたのです。恥らいながらも、裸になる事自体を気にせずに、温泉治療やコミュニケーションで楽しむ文化は、本来の日本人が持ち続けて来た文化と一致しる筈はずなのです。
そして、何より「考え方」についても裸一貫から見直すべき時期だと考えるのです。
江戸時代の様に、自給自足で循環型のエコ社会を再びめざして、細々と自分達の力で生活する社会を目指して欲しいのです。
とにかく「人間牧場」「植民地主義」の思想から一旦抜け出て、再びゼロから「心眼」で世の中を見通し、21世紀の新たな価値観を築いていかなければならないのです。
日本にとって過度な財政赤字は駄目です。公務員の削減も必要だし、もし財源が無ければ新たに財源を創り出すなり、国家の財産を処分するべきなのです。
首都を移転し不動産を売却すれば、どれだけの財源が確保出来、また新たな公共投資による雇用が増えるでしょうか。
それにはまず、全ての政治家や官僚が「武士道精神」を取り戻す事から始めなければならないのです。

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