ロハスでクールな江戸っ子達

『佃節』で「いきな深川、いなせな神田、人の悪いは麹町」と読まれたのが江戸っ子気質です。
「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」「喰いねぇ、喰いねぇ、寿司喰いねぇ」という台詞でお馴染みなのがいわゆる江戸っ子なのです。
「べらんめえ」とか「てやんでえ」、「べらぼーめ」や「あたぼーよ」、主語は「こちとら」で、「ヒ」と「シ」の発音がはっきりしないから「お日さま」を「おシさま」と言うようなチャキチャキの江戸っ子は、鐘や太鼓叩いてもそう易々とは探せません。
「金離れが良く、細かい事にはこだわらず商売下手、意地っ張りで喧嘩早く、駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感に溢れる」・「いきでいなせ」などと表現される短気・気が早い、「気持ちや身なりのさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっているのです。
九鬼周造の有名な『「いき」の構造』という本があります。彼によれば、粋(イキ)とは、日本人の民族精神を代表する美意識であり、「垢抜けしていて(諦め)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と定義しています。
『いなせ』は【威勢がよくさっぱりとしたきっぷ】のこと。特に【勇み肌の若者】のことを言います。
漢字で書くと「鯔背」。「鯔(イナ)」は魚のボラの幼魚のことで、この鯔の背びれが日本橋・魚河岸の若者が結った髷(まげ)に似ていたために、その威勢のいい若者のきっぷを『いなせ』と呼んだという説があります。それらを纏めて、「江戸っ子気質(えどっこかたぎ)」などとも呼ばれているのです。また当時の浅草寺が、ガド族とマナセ族によって建造されたとも言われており、
このマナセからも、鯔背という言葉の響きが連想されるのです。
ところで、江戸の人々の気質を表す言葉に、「江戸っ子は宵越しの金は持たない」というのがあります。
気前がよく、きっぷが良いのが、格好の良い、胸のすくような、江戸好みでした。
けち臭く、ねちねちして、びくびくした生き方を嫌ったのでした。
私が理想とする、お金に囚われない生き方を江戸っ子達は実践する事が出来ていたのです。
だからこそ、お金に振り回される事が無く「心眼」で、しっかりと本物の姿を見て生活する事が出来たのだと考えるのです。現代はその正反対であり、お金によって振り回され「心眼」が曇り、本当にやるべき事が少しも見えなくなっています。ですから、お金はあるのに心は貧しく、幸せな生活が出来ないでいる人々がほとんどなのではないでしょうか。
お金に囚われないから、カッコイイというのが江戸時代の価値観で、貧乏でも貧困にはならなかったのです。
反対に、お金に縛られて、カッコ悪いのが現代。これらを踏まえて、どうしたらお金に囚われない社会を築いて行けるのかを話し合い、良いアイデアや発明を増やす事が、現代の日本人の課題ではないでしょうか。
現代人にとって、お金を稼がなくてはいけないという脅迫観念が、人間の思考力や行動力にストップを掛けてしまっていることこそが、大きな問題なのです。
そして、そんな背景が、江戸時代には「粋」という美意識を生み出したのでした。
ここで、江戸時代の箱根の関所での「粋」な話を一つ紹介します。
当時、関所破りは、はりつけ、死罪という刑が決まっていたのですが、実際に箱根の関所のあった約250年間の間で、磔、死罪になったものはわずか6人のみらしいのです。
あとは「藪入り」と称して、道に迷ったんだろう、という関守の判断で元に戻され放免されたというのです。
当時の役人たちは、なんとも粋な計らいをしたものです。
旗本がお金に困ったときは、長持(衣服などを入れて保管したり運搬したりする箱)に紙くずを入れて質屋に持ちこむこともありやした。
質屋は、中身が紙くずとわかっていても金を貸しました。紙くずの入った質草を流してしまったら、いうまでもなくその旗本の家名に傷が付いてしまいます。
家名にかかわることから“信用”でお金を貸したのです。
さらに、金銀や、豪奢なものも質草として禁じられていました。
一方で、おかしな質草として「ふんどし」がありました。
宿場の駕籠かきたちは、お金がないと自分のふんどしを質に入れました。
質屋も、このふんどしで1分の金(1両の4分の1)を貸したというから、きっぷがいい話しなのです。
ふんどしを質に入れた駕籠かきは、新しいふんどしを締めることは許されませんでした。
これは駕籠かき仲間の掟で、破れば仲間からリンチを受けることになったというのです。
質屋も、この駕籠かきたちの仁義に対してお金を貸していたからなのです。
もっとおかしな質草は、職人たちの月代で、職人たちは自分の月代を質に入れていました。
これも受け出すまでは、絶対に月代を剃ってはならなりませんでした。
粋を尊び、月代の剃り方にもこだわる江戸っ子にとって、これは、さぞかし辛かったことでしょう。
気の利いた、おしゃれ(ユニーク)なタイミングのイイ気配りだったのです。

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