千利休はイエズス会のスパイ

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる千利休とは、いったい何者だったのでしょう。千利休は、徳川家康のスパイであったという説も根強く残っているのですが、それは千利休が徳川家康と内密に茶会を開いた事を知った後に、豊臣秀吉に千利休に切腹を命じられたからなのです。おそらく千利休は、イエズス会の意向を受け、秀吉の朝鮮出兵に大反対し、徳川家康にも協力を仰いだのだと考えられます。
茶道とは、キリスト教の血と肉を象徴するパンとぶどう酒を、死期の迫った信徒に牧師が分け与え、聖書を朗読し、安らかに召天されるよう祈る儀式、聖餐式(せいさんしき)を隠れて行う為の儀式だと言われているのです。つまりは、日本独自の伝統と思われて来た茶道が、実はキリスト教の儀式だったのです。
そして、当時の茶会の本当の目的が情報交換や秘密会談の場所でもあった事からも、千利休が現代で言うスパイ的な役割を担っていたことは間違いない事だと考えられます。
そして千利休の切腹後には、一条戻橋の袂に千利休の木造が十字架にかけられて晒されたとの伝承が残る事からも、キリスト教徒の関係が暗示されており、千利休は単に家康のスパイだったのでは無く、イエズス会のスパイだったという可能性が高いのです。
また、織田信長が本能寺に手薄な警護で出て来た原因が、茶会への参加であったのです。
当時の織田信長は、初花・新田肩衝と並んで天下三肩衝と呼ばれた茶器である楢柴肩衝(ならしばかたつき)を欲しくてたまらなかったらしいのです。
肩衝とは、肩の部分が角ばっている茶入のことです。
楢柴肩衝は、釉色が濃いアメ色で、これを「恋」にかけて『万葉集』の「御狩する狩場の小野の楢柴の汝はまさで恋ぞまされる」の歌に因みこの名になったとされます。
千利休の高弟・山上宗二が、天下一品の壷と絶賛したと言われています。
楢柴肩衝は、もともと足利義政の所有物でしたが、その死後は、持ち主を転々とし博多の豪商、島井宗室が手に入れました。親交のあった織田信長もこの名物を欲しがり、商売の保護を条件に献上するように宗室に命じ、その楢柴肩衝を獲得する為に本能寺まで出て来たのだと言われているのです。となれば、織田信長をおびき出した張本人は、千利休だと言う事になるのです。
そして一旦は、イエズス会を味方に付けて天下統一を果たした豊臣秀吉ではありましたが、その後は伴天連追放令でイエズス会を排除してしまった事からも、千利休がイエズス会のスパイであったという可能性を否定する事が出来ないのです。
家康が堺の商人達に助けられ、伊賀越えで三河へ逃げ帰る事が出来たのも、千利休からの情報があったとするならば、容易に理解し易いのです。
また千利休の住まい跡が、京都の安倍晴明神社に有る事から、千利休は陰陽師に関わる一族であったことも推測されるのです。
秀吉の実質的な右腕だった黒田官兵衛や高山右近がキリシタンだった事、黒田官兵衛が毛利や島津を潰していない事などからも、本能寺の変の背後にイエズス会が潜んでいたとするならば、全ての辻褄が合ってしまうのです。イエズス会は、織田信長の明の支配を目的とする朝鮮出兵を阻止したかったのだと考えます。これについては、バチカン図書館の資料を始めとするさらなる歴史的研究が望まれるところなのです。
いずれにせよ、千利休は豊臣秀吉が天下を取る為に行った、様々な政策や戦略においての良きアドバイザー役であった事は間違い無いのです。
豊臣秀吉が行った刀狩、徳川家光が武家諸法度に加え行った参勤交代。どちらも戦う前に主従関係を明確にして逆らえないように仕向ける制度とし、武器は没収、管理、また人質を抑えて、戦う為の財力も消耗させておき、戦う手段を無くしてしまう頭の良い作戦だったのです、
現代に当てはめて言えば、核兵器の不拡散に関する条約(かくへいきのふかくさんにかんするじょうやく、Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons、略称:NPT)は、核軍縮を目的に、アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5か国以外の核兵器の保有を禁止する条約です。
こちらの方は、もし抑止力の為に核を持たなければならないと言うのであれば、国連軍だけが持つようにして、アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5か国が核使用を放棄しなければ、本当は意味が無いと考えます。
徳川家光氏が行った参勤交代の場合は、武器では無く「蓄財」と「人質」に目をつけた頭の良い作戦でした。
将軍とその大事な妻を引き離し、かつ人質として江戸に確保する訳だから一石二鳥なのです。
また、参勤交代は距離が遠く、その分余計な時間と費用が掛かる外様大名に不利なわけですから、これも一石二鳥の政策でした。とりわけ、力の強かった薩摩藩へのダメージが大きくなり、幕府にとってはとても有利な政策でした。
そして、少しでも不穏な動きが有れば、取り潰して幕府の直轄地としてしまう訳なのですから、まさに、戦わずして幕府が外様大名に勝ち続けたのでした。
武家諸法度は、もともと二代将軍の徳川秀忠氏が発布したのですが、その主な目的は、
1)新規築城、無断での城の補修の禁止。
大名が力をつけたり、その力をアピールしたりする事を禁止した。
2)幕府の許可なく、大名同士で勝手に政略結構してはいけない。
3)「一国一城令」
1615年の6月に幕府は「一国一城令」を発した。これは「大名は城を1つしかもってはいけない」という命令。戦国時代の大名はメインの城以外にも支配地域に多くの城を配置していたのですが「もはや平和な世の中になったのですから、そんな軍事的な城はいらない」ということで城は1つ残して後は全部壊されたのでした。
武家諸法度では、新たに城を造ったり、幕府の許可を得ずに直すことも禁止となりました。
幕府は、これにより大名の軍事力を削ぐ狙いがあったのです。
大名同士での結婚の禁止は、いわゆる政略結婚の禁止を意味します。これは、幕府にとって大名同士が幕府の知らぬところで結婚などを通して連帯を強めるとやっかいなので禁止したのです。
将軍と大名とは、1対1でなら主従関係がはっきりとわかれますが、大名が束になってしまうと 将軍の地位も危うくなるから大名同士の連帯を特に警戒したのでした。

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