計算ずくの桶狭間、天下分け目の関ヶ原
織田信長は、頭脳明晰でスパイを使った諜報戦のプロフェッショナルでした。
織田信長は、桶狭間の戦いにおいて、スパイ活動で得た情報を基に、徹底して今川義元の首のみを取る目的で計画を立てていたのでした。さらに目的を達成する為には、今までの戦いのルールである、「戦は午前中で終わりとする」「敵の首を持ち帰り恩賞と交換する」「名乗りを上げ一対一で戦う」も完全に無視して戦ったのだから、今川軍からしてみれば「青天の霹靂」想定外で驚きの連続だったに違いないのです。
わずか1日のうちに、最低限度の戦闘力で今川軍を倒したこの戦いでの勝因は諜報力でした。歴史の教科書では天候が神風のごとく織田信長に味方したように伝えられていますが、織田信長にとっては、全てが計算づくの勝利であった筈なのあです。
周囲の寺院や農民、商人をスパイとして使い、今川義元に酒を飲ませて安心させたり、逃げるのが難しい桶狭間谷におびき寄せたり、雨天の変わり際を襲ったりと、相手を欺く戦法を徹底的に準備していたのでした。
戦う前から諜報力に優れ、今川軍本陣の場所まで正確に把握していた織田信長の勝利は、初めからほぼ決定的だったのです。
結論的には、先陣隊の葛山信貞軍と、大高城担当の徳川家康は織田信長に寝返っていたに違いないのです。
なぜならば、徳川家康は無傷で前夜に兵糧を運び込み、早朝に一戦し勝利した後には、全く動いていない様子だかったからなのです。そして、先陣隊の葛山信貞軍については武田信玄の従兄弟であり、スパイだったという話もあるのですが、記録が曖昧なので、本当に出陣していたのかさえ、また何処でどのように戦っていたのかの記録自体もはっきりしていないのです。
ですから、戦闘人員では圧倒的に少なかった織田軍が今川軍を倒すことが出来たのです。
織田軍の総勢3,000 – 5,000人(奇襲を実行したのは2,000人)に対して今川軍は25,000 – 45,000人(諸説あります。また、織田軍に直接対峙したのはこのうち5,000 – 6,000人)でしたが、戦う前から、勝負はついていたのです。
一方で「天下分け目の戦い」と言われる関ヶ原の戦いも、戦う前にから勝負がついていました。
ですから、天下分け目の戦いはたったの半日で決着してしまったのです。
この戦いの最大のポイントは、
①黒田官兵衛及び長男黒田長政のスパイ活動と諜略
②毛利藩を釘付けにし、島津藩の本拠地を直接牽制した。
③黒田長政が、小早川秀秋軍と吉川軍を徳川軍に寝返らせた。
④そして大垣城から関ヶ原での得意な野戦へと引きずり出したこと。
これらの要因で、あっという間に徳川家康は、全国を統一し265年間の江戸幕府を築いたのでした。
反対に、石田光成の敗因は、
①大垣城を出て家康が得意とする野戦に挑んだこと。
②豊臣秀頼を旗印に担ぎ出せなかった。
正反対の例としては、鳥羽伏見の戦いで新政府軍は菊紋を旗印にしたことで、徳川軍を朝敵へと貶め、戦意を喪失させたことなのです。
③黒田官兵衛、長政親子の寝返り工作にハマった。
という事だったのです。たとえ戦争が始まっても「戦わずして勝つ」見本のような戦いでした。
関ヶ原の戦いは、約17万人前後の戦力が戦い合ったと言われており、戦死者数については両軍合わせて約1万2千人~約4万人まで諸説あるので定かではないのですが、私の推測では戦死はそれほど多くなかったのではないかと考えています。
小早川秀秋の裏切りが、判明した時点で西軍は、戦意喪失した事が予想される事と、戦いが始まってから約6時間で西軍が敗走している事からも、この時間で殺し合える人数は限られて来ると考えられるからなのです。
これが、もし大陸での戦闘であれば、どちらかが皆殺しにされるまで徹底的に戦いが続けられたのかもしれませんが、日本人の武士道精神から考えると、日本史上最大の戦いであったにも拘らず、犠牲者は約1万2千人~最大でも4万に程度であったのだろとうと考えられているのです。
まさに外国人からは、理解すら出来ない戦いの結果であったと言うことが出来るのです。