NWOと日本の支配者

「新世界秩序」NWO(new world order)とは、現在の主権独立国家体制を取り替え、世界政府のパワーエリートをトップとする、地球レベルでの政治・経済・金融・社会政策の統一、究極的には末端の個人レベルでの思想や行動の統制・統御を目的とする管理社会の実現を指すものなのです。
日本人は現代に至るまで、なぜ「漢字」を使い、中国から伝来した「仏教」を重んじ、「律令国家」であり、「科挙」的な試験制度を標準的に使っているのでしょうか。
それは、日本が白村江の戦いに敗れた後に、唐からの強力な占領政策を受けた事と、その唐との関係を利用して日本を統一したい天武天皇の狙いがあったからだと私は考えています。
日本が約4万人の水軍で百済を救援に行った「白江村の戦」で、唐に惨敗してしまった事件については教科書でも明らかですが、なぜ唐に負けたにも拘らず、日本が唐に支配される事無く、無事で居られたのでしょうか?
普通に考えたら有り得ない話であり、実際には日本の九州が唐に占領支配されていたのだと考えるべきなのだと私は考えます。
白村江の戦の翌年の664年に、郭務悰(カクムソウ)が旧百済領占領軍の鎮将劉仁願の命により百済人禰軍らとともに戦後処理の交渉のため来日、表函と献物を進めました。
しかし朝廷は、郭務悰を鎮将の私使と認めて大宰府で交渉させ、入京は許しませんでした。
このころの天武天皇は、新羅進駐軍と伴に九州の大宰府に居たのではないでしょうか。
665年には、劉徳高とともに表函を携えて再び来日し、このときは入京を許されたのでした。
669年にも来日し、671年百済人沙宅孫登らとともに総勢2000人で再来日しました。
彼らは、672年天智天皇の死後、甲冑・弓矢、絁・布・綿を与えられて帰還しました。
以上の様に一般的には伝えられていますが、戦後のGHQの占領政策と同様に、唐の占領軍は大宰府で新羅軍と伴に日本への占領政策を行っていたのだと解釈せざるを得ないのです。
そして、それに最後まで反対していたのが天智天皇だったのだと私は解釈します。
おそらくこの時期に、大宰府に居たのが後の天武天皇だと考えると、その後の壬申の乱への展開も含めて辻褄が合うからなのです。
「大化の改新」や「乙巳の変」等の一連のクーデター騒ぎは、国内での事件では無く、唐、高句麗、百済、新羅、伽耶を巻き込んだ国際的な事件だったのでしょう。
結果として、唐と新羅の連合軍が全面勝利し、一旦は九州をその支配下に入れていたのだと考えます。
日本が遣唐使や遣新羅使を頻繁に派遣しているという事は、唐や新羅に従っている証拠だからなのです。
そして、その後に新羅が唐に反乱を起こして、三韓を統一したと言うのが、本当の歴史の流れなのではないかと考えます。
従って、天武天皇と藤原不比等は本当の支配者である「唐」と「新羅」の存在を隠したかったのです。
それと同時に、「宗教」「文化」「民族」等の古来からの日本伝統を守る為にも、隠さなければならない事が沢山あったのではないでしょうか。そして、カバラの奥義を使い、同族であろう蘇我氏や中臣鎌足や天智天皇を「悪者」に祭り上げる事で、天武天皇の正統性を誇示しようと考えたのだと私は解釈します。
現代科学の発達により、発掘された副葬品や遺品からは、C14年代測定と呼ばれる放射性炭素年代測定によりかなり正確な、時代鑑定が出来るようになってきました。
また人骨のDNA鑑定により、科学的なデータを得る事が出来るようになりました。
ですから、文献に頼らずともそこで明らかになった科学的データに照らし合わせて、隠されていた事実を少しずつ浮き上がらせることができるようになって来たのです。
また、地名や人名、家系図、神社の名前、祭神、言い伝え、祭り、儀式などには、貴重なヒントや暗号が隠されているので、それらのなぞ解きをするのも楽しい歴史探究となるのです。古事記は日本だけでは無く、人類文明の歴史で有り、また藤原氏が隠蔽せねばならぬことも多かったから、神話形式にして暗号のように隠し込む必要があったのだと考えます。
★1)平安時代までの古代の歴史は
1)縄文時代、2)弥生時代、3)古墳時代の3つに分けられます。
1)縄文時代は、1万3千年ぐらい前から1万年続き、アイヌ人にも遺伝子的に近い縄文人とスメールから渡来した橘氏などが日本に住んでいた時代のことなのです。
2)弥生時代は、稲作の技術を持って、葛城氏、物部氏(徐福)、秦氏などの渡来人が移住してきて、縄文人と混血しながら新しい文化が伝ってきた時代です。
古墳時代は、歴史の教科書から抹殺されているも同然の時代なのです。
古墳は天皇のお墓とされて、誤魔化されて来ていますが、もし天皇のお墓なら、日本全国に天皇のお墓が分散している事になってしまいます。
なぜ古墳時代に突然古墳が現れたのか、副葬品に馬具や鎧や刀が出て来る理由の説明が全く出来ていません。ですから騎馬民族が入って来て、古墳を作らせた事実を認めなければならないのです。ただし、古墳は新田の大規模干拓の結果、余った残土を利用した、洪水や干水対策用の避難設備であり、干拓の規模を誇示するモニュメントであり、神道の祀祈場であり、豪族の墳墓としても利用された可能性も高いのです。
副葬品から考えても、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、継体天皇など、古墳時代の天皇は海外から日本に渡来してきた騎馬民族で有る事を認めなければならないのです。そして、それらの真実を解明出来るたった一つの方法は、DNA鑑定だと考えています。
古墳や遺跡から出て来た、遺骨のDNAを分析する事で日本人のルーツや民族の移動等が正確かつ科学的に解明されてくる筈なのですが、何故か隠蔽されているのです。
歴史の科学的解明にとって、DNA研究調査が重大な決め手となるのは明らかな事実なのです。

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