信頼関係こそが契約書
企業は、100年以上続くことが当たり前だと考えている日本人にとっては、契約書はあってないような存在なのです。極端な話、契約書は無くても「信頼関係」さえあれば済むからなのです。
東南アジアにおいては、まさに華僑の世界が「信頼関係」で成り立っており、彼らの世界でも「契約書」は、ほとんど必要ないのです。
反対に中国企業との契約は、「契約書」で詳細に決めごとをしていても、簡単に反故にされてしまうのだから、「契約書」などはあっても役に立たない代物なのです。
日本人同士の国内の取引では、たとえ契約内容がどうであろうが、顧客が納得の行く製品を提供して、顧客の信頼を得ない限り、その取引は長続きしないものなのです。
ですから日本の市場は、世界一競争が厳しいと言えるのかもしれません。
そして、信頼というものは、紙切れでなどでは決して表せるものでは無いのです。
世の中には「血判状」と言う、約束を血で記した契約書もありますが、最後はその人物の行動だけが、誠か否かを証明できる唯一のものだから、頼りとなるのは「信頼」の一文字に尽きるのです。
このように、日本人の強さは固い「信頼」によって、人と人、企業と企業、企業と人が結ばれていることなのです。
ですから、契約不履行や詐欺、品質不足等の無駄な問題が起こりにくいのです。
一方で、西洋式の契約書は、決められた一定の範囲についてのみ約束、保証をするものなのです。
西洋では、神とも契約によって繋がっているのです。
契約書は、期限が来る限定的な文書ですが、信頼関係は未来永遠に続くものなのです。
契約書は、お金と同様に、取引を安全かつ円滑に行う上では便利で合理的な仕組みなのですが、決して100%依存してはならぬモノでもあるのです。
たとえば、平和が契約書だけで実現できるとはとても考えられません。
ですから結局は、人間同士の信頼関係が全てとならざるを得ないのです。
日本人は、形式知である契約書よりも、暗黙知である「信頼」関係を重んじている民族だと言う事が出来るのです。だからと言って、契約書を蔑にするものでは無く、契約書の内容は当たり前として守るのが日本人なのです。
そして、この両者の重さの違いは歴然としています。
契約書は所詮、紙の上に書かれた二次元の存在でしかありません。
それに対して「信頼」は、永遠に続く時間も含めすべてを含めた四次元的な存在であり、エネルギーそのものなのです。
そして、エネルギーとエネルギーの間の絡み合う関係性、これが「信頼」に他ならないのです。
ですから、世界平和を実現するにも、このエネルギーとエネルギーの間の絡み合う関係性が必要になってくるのだと考えます。
エネルギーと言う概念が、今後の世界では非常に重要な意味を持ってくるのだと感じているからなのです。
