喧嘩両成敗の妙

喧嘩両成敗は「争う事自体が悪」と言う、争い嫌いの日本人ならではの考え方なのです。
争いが起きるには必ず何らかの原因があり、摩擦が生じていた筈なのです。そして最終的にどちらが仕掛けたとしても、相互に問題があったからこそ争いが起きたわけで、コンピュータープログラムのように0か1で絶対にどちらかに責任が分かれる訳では無いのです。
ですから20対80の割合でBに問題があるとか、60対40でAに問題があったと言う話なのです。
もしそうであるならば、まずは両方がお互いに謝罪をしてから、最終的にどちらがどのくらい悪かったのかを話し合って和解をすれば良い事になるのです。
しかしながら、本来は争う前に問題を解決してしまえば、問題にならなかった筈なのです。
そして、もし「争う前に解決出来なければ、両者ともアウトにしてしまえ」という良いルールを創り上げたのです。
そういった意味においては、大東亜戦争での日本の責任は100では絶対に無く、極めて50%に近いものだと個人的には考えています。
しかしながら喧嘩両成敗は、一方的に争いに巻き込まれてしまい、明らかに一方が大幅に悪い時には、引き込まれた方には、なんとも納得の行かない制度となってしまう弱点もあるのです。
喧嘩両成敗は、日本人が考え出した戦争を防ぐための特別ルールであり、日本人には当たり前の感覚になったのでした。
喧嘩両成敗は、戦国武士の鎌倉時代の分国法として始まった考え方で、喧嘩をしたら多かれ少なかれ、どちらにも落ち度があるのだから、当事者の両方が罰せられるという考え方なのです。
さらに「君子危うきに近寄らず」、「李下に冠を正さず」という中国のことわざを日本人が大切にしているのは、そもそも立派な人は問題が起こらないように、日頃から注意をしているものだからなのです。
問題を起こすこと自体が準備至らずという事で、人格者としては失格だと言う高いレベルでの考え方なのだと思います。
それは争いを避ける為に日本人が考え出した方法で、誠に素晴らしい知恵だと思います。
戦争で言うならば、勝っても負けても罰せられ、謝らなければならないというのが本当に必要な事なのです。
喧嘩や紛争にもさまざまなケースがあり、さすがに両成敗では不公平なケースもあったでしょうから、江戸時代になり喧嘩両成敗は法律からは外されたようなのですが、その考え方は現在まで続いて来ているのです。
喧嘩や紛争の発生自体を予防する意味では素晴らしい発明なのです。戦争の裏には、戦争を仕掛けた陰のフィクサーが必ず存在しているので、それらに騙されて戦争を始めてしまったこと自体を強く反省するべきなのです。
したがって日本人は、過去の戦争については、勝った戦争についても負けた戦争についても反省をしなければならないのです。
勝ち負けを判断する上で、もう一つ日本人が大切にしている考え方として、フェアプレーの精神があります。
それが最も分かり易い事例として、高校野球があげられます。
高校野球を行う上での基本となっている日本学生野球憲章の第2条には、
「学生野球の基本原理はフェアプレーの精神を理念とする」としてちます。
学生野球における基本原理の最も大切な決まりは次の通りです。
①学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。
②学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする。
春と夏に甲子園球場で行われる、選抜と全国高校野球選手権ですが、地元の代表選手を応援する事で、全国的に大変盛り上がる高校野球ですが、なかでも人々の心を掴んで離さないのは、この「フェアプレー」の精神が根本にあるからだろうと考えます。
人々は勝ち負けよりも、「フェアプレー」で堂々と戦う選手たちの姿に感動を覚えるので、勝っても負けても、選手たちに惜しみない拍手を送るのです。
ここでも、華やかなプレーやパフォーマンスでは無く、「フェアプレー」の精神を大事にし、力の限り戦い抜く、「真直ぐな気持ち」こそが皆、大好きなのです。
人々は選手たちのプレーを「心の目」で暖かく見守ってあげているのです。

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